Nothing ever makes me happy


 ふいに思い出した。

 楽しみにしていた食事。

 そう。今日の・・・・違う、もうとうに真夜中は通り過ぎた・・・・日付の向こう側の逢瀬。逢瀬と思うのは自分の方ばかりかもしれないけれど、それは確かにどれだけぶりかのRendez-vous。そう思うことくらい許してほしかった。誰にも知られない。誰にも気づかせない。だからせめて思うことだけでも。思うことさえも許してもらえないのなら、せめてここに、傍にこうして座っていることだけでも。ここにいることだけでも許して。どうか許して。どれ程離れていたものなのか。会えるだけでいいと思っていたからなのか。彼は元々饒舌な男ではなく、それにつられて私も言葉をなくす。あれ程言いたい事もきかせたい話もあった筈なのに、全てを見失って時間を持て余す。会話もなく、淡々と流れていく時間。白い空白。あんなに待ち望んでいた筈なのに、そのうち、楽しいのか苦痛なのかが分からなくなる。胸が苦しくなる。痛くなる。手が震える。息が詰まってどうしようもなくなる。悲鳴を上げたい。叫んでしまいたい。そのまま周りが全てなくなってしまえばいい。彼と二人残して、あとは全部いなくなってしまえばいい。世界に他の何も誰もいなくなってしまえばいい。嘘。彼を遠ざけてほしい。この静けさがあと一分続いたら、きっとおかしくなる。彼の目がもうこわい。彼の唇が次に開く瞬間に、耐えられるかどうかもう分からない。自分がしてしまうことの予測がつかない。きっととんでもないことをしてしまいそう。手元にひかるナイフ。肉も魚も切らずにナプキンの上に行儀よく並んで光っているナイフ。駄目。おかしくなってしまいそう。夢遊病者のような指先でナイフに触れる。おかしくなればいい。おかしくなってしまえればもう、きっと、楽。ナイフを取って立ち上がって、彼のところまで何秒?彼の、その、ほんの少し傾げられた首のラインまで何秒?柔らかい髪をかき分けて、現われる滑らかな首筋、その膚のラインをさらけ出させるまでに何秒?その前に自分の手首を確かめる。ナイフは瞳の中で長い弦に変わる。遠い昔に習っていた、ヴァイオリンを弾く仕草。すーッと引けていくぎんの流線。それを追う細い紅いライン。そう最初はペンでなぞったような紅いラインが引けるだけだ。それからそれを追ってにじみ出す紅い色。紅く流れて滴り落ちる色たち。駄目、そんなゆっくりじゃいけない。largoを弾くのでは間に合わない。allegrissimoかpresserでなければ間に合わない。この白いクロスを一瞬で染めるくらいでなければ間に合わない。断面を晒し脂肪にぬめる肉を暴く深さでなければ仕方がない。想像しただけで世界が紅に染まる。彼の白い皿の上に切り分けられてどろりと内臓を晒た赤い色の果実。熟し切った果肉にかかる同じ色のソースの粘り。それに目が引き付けられて離せなくなる。それを更に小さく切り裂いて、彼が口に運ぶ。彼の唇が私の肉にキスをする。震えが走る程幸福な想像。グロテスクに内側を晒した私の肉に彼の清潔な唇が触れてくる。目眩がする程甘美な錯覚。彼の唇はきれいなままで、私の愛した彼に相応しいようなミルク色のワイシャツにも染みひとつつかぬままで、私だけが無惨に食い荒らされて、血も肉も惨めになくしていく。吹き出す紅が埋め尽くす。塗り潰される。視界をおおい尽くして、紅に埋もれて、もう、何も見えなくなる。自分の手首も、白いクロスも白い皿も、彼の白いシャツも。優しい声も。残酷な香りも。なくなる。消えてここからなくなる。全てなくなる。自分が欲しいと思うものだけを連れて、私はどこかへいなくなる。それは我が儘?それは勝手?許されぬのならその決め事がおかしい。だってそうすれば幸せになれるのに。私はきっと楽になれるのに。いつも何かが邪魔をする。いらぬ邪魔の入る前に、ぎゅっとナイフを握り直す・・・・・・・・

 「・・・・ねぇ」

 穏やかな声がきこえた。

 「ねぇ。シャーベット、とけるよ」

 ぐずぐずに溶けて崩れ落ちた、洋梨のシャーベット。

 私は、うなだれたまま、のろのろとスプーンに手を伸ばした。
 溶けて形をなくした、冷たい甘いシロップを、すするように口に運ぶ。


 ナイフとフォークがクロスの上で光っている。何時までも。私たちがぎこちなく席を立ったあとでも、まだ光っている。




















「楽園の嘘」とかなり同傾向の話です。なので、おそろいの壁紙にしてみました。「ぐらん・ふくや・かふぇ」さんの「ハライソ樹海」黒背景バージョンです。
文章の詰め方が、かなり精神的に追い詰められている・・・というか、既に少々電波っぽい感じもしますが(笑)、こういうヤバめの雰囲気が好きなのです。globeの曲には、狂気の一歩手前がよく似合う(褒め言葉)。

ちなみに、各音楽用語は、
largo【伊ラルゴ】幅広くゆっくりと。
allegrissimo【伊アレグリッシーモ】はなはだ快速に。
presser【仏プレッセ】リズムを速める、せめたてる。
音楽用語辞典 WEB版より。十年ちかくピアノを習っていたくせにこの手の音楽用語はさっぱり分からないので、わざわざオケ部の友人に助言を請いました(笑)。